郷土博物館

■報道で紹介されている「荒牟田古墳の象嵌鍔」の観覧を希望される皆様へ

 実物は現在修復作業中のため一般公開はしておりません。 以下に資料画像を公開していますのでそちらをごらんください。象嵌鍔の資料 ※資料画像の無断転載や利用はご遠慮ください。

■糸島高校博物館をご利用の皆様へ

本校博物館は、一般の方も見学することが出来ます。
来館時には必ず、事前にご連絡をお願いいたします。

 ■糸島高校博物館開館時間
 ◆館時間     9:00~16:00
 ◆休館日     高校内の博物館のため、土日祝日、学校の休日、

                学校閉庁日(8/13~15)、年末年始としております。

資料調査に際しては下記調査申請書をダウンロードの上、必要事項を記入し、
資料調査依頼書とともに、当日お持ちください。
なお、事前準備が必要ですので、調査申請書の写しを予めFAX、Eメール等で
ご提出願います。
 調査申請書ダウンロード[MSwordfile:32kb]

TEL 092-322-2604
FAX 092-323-6943
Eメール info@itoshima.fku.ed.jp

■糸島高校郷土博物の経緯

中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国の地に位置する糸島高校には、旧制中学時代から多くの遺物が採取され、昭和6年、大島六太郎校長はそれらの考古 資料の保管のため、一教室を開放し、郷土室としました。同年10月には中学創立10周年記念祝賀の一環として、展覧会が開催されました。

戦後にはいると、郷土室創設時から深く関わっていた原田大六氏による献身的、精力的な遺物整理が進められ、また歴史部員各位の活発な活動にも支えられて資料、館内解説も充実していきました。

当時は「アメリカのカレッジ以上の考古館」、「郷土室にいると、いながらにして古代の糸島郡下の生活のさまが浮かんでくるようだ」、「全校一致の長い努力の結晶が全国一といわれるこの郷土室を生み出した」と絶賛されたものです。

昭和31年5月には体育館兼講堂の落成に伴い旧制中学校時代の講堂が図書館に転用され、その一部、中二階に郷土博物館が誕生し、同年10月には文部大臣指定の博物館相当施設となりました。わが国唯一の文部省指定高校付属博物館の誕生です。

昭和63年には視聴覚棟3階に増築された合同教室に移設され、現在にいたります。

■概要

古墳時代。弥生時代をわが国の生活文化の大変革期ととらえるならば、この時代はさしずめ社会体制の大変革期。古代国家形成にむけて人々の動きがより一層、活発・広域化する時代です。

この古墳時代を象徴するものといえば前方後円墳。糸島では現在までに50基ほどの前方後円墳が発見されています。福岡県内で総数200基ほどといわれていますから、県内の前方後円墳の約1/4を糸島が占めているということです。

前方後円墳は単に王の墓というだけでなく、地方においては初期大和政権と各地の首長が盟約関係を結んだことを示すシンボルとしての役割も持っていました。糸島の前方後円墳は古墳時代の前半期のものが多く、しかも大型です。

このことは伊都国と初期の大和政権との弥生時代に続く密接な親交関係と、伊都国が北部九州地域における盟主的な地位を約束されたことを意味しています。博物館には当時の繁栄ぶりを示す銅鏡、石製宝器類、埴輪などが収められています。

古墳時代の後半期には糸島地方だけでも総数500とも1000ともいわれる多くの横穴式石室の古墳が造られました。この爆発的増加は古墳をとりまく社会情 勢が変化し、その役割も変わっていったことをうかがわせます。多くは墳丘の規模も小さく、既に入口が開けられ、石室内から様々な遺物が持ち出されていま す。

博物館の所蔵品の中でも量の多い資料の一つである須恵器もおそらくこれら古墳の石室内から発見されたものでしょう。なかには朝鮮半島からの輸入品ではない かとみられる資料もあります。 この他、長野の古墳から出土した人物を描いた壷、御床松原遺跡から出土した土製人形など当時の人々の表情、しぐさまでが思い起こされるユニークな資料にも 興味をひかれます。

■約2000点の収蔵品

弥生時代を中心にした遺物が多く、特に弥生前期から終末期に至る甕棺の全形式が蒐集復元されているのは壮観であり、今山系石斧の、原石から磨製に至る多数 の出土品も見ごたえがある。また、二丈町鹿家出土の舟形石棺(県指定文化財・原田大六氏復元)1対や、前原市三雲出土の広形銅鉾鎔笵(前原市文化財指定) 1個など学界注目の遺品を含め、約2,000点が収蔵されている。

■特色

1、高校としては異例の文部大臣指定を受けた郷土博物館であること。
2、陳列品のほとんどが旧糸島郡内の出土品で、系統立てられていること。
3、学術上重要な遺物が多く含まれていること。
4、著名な考古学者原田大六氏(糸島中学8回生)の献身的奉仕による蒐集復元の遺物がほとんどである。

■館内インフォメーション

■音声ナビゲーション■パンフレット
ボタンを押すと、それぞれその時代の説明が聞けます。詳しく聞けるし、音声なので文のように面倒でなくて便利です。館内に数台設置してあります。館内にはパンフレットが数種類置いてあります。資料の解説や郷土博物館の歴史等も知りたい方はどうぞ見てみてください。持ち帰り可。

■主な収蔵品(1)

■舟形石棺(県指定文化財・二丈町鹿家長須隈古墳)

長須隈古墳から出土した3メートル近い巨大な石棺。大正10年ごろ発掘され、ここまで馬車で運ばれてきたそうです。県指定文化財です。

長須隈古墳は福岡県と佐賀県のまさに県境に立地する古墳です。現代の行政区分上は福岡県にありますが、地理的にはむしろ唐津湾岸域の東端に位置すると理解したほうが自然です。墳丘は1978年の発掘調査の結果、径21.5mの円墳であることがわかりました。

石棺は大正10年ごろ掘り出され、昭和35年には県指定文化財に指定されました。石棺は砂岩をくり抜いて造られています。棺身と蓋にわかれ、身が全長 2.81m、蓋は長さ2.62mで、身、蓋とも小口部に、蓋はさらに両側縁中ほどに各1個ずつ、縄をかけて棺を運ぶための突起が削り出されています。頭側 が幅広く深めに造られていて、棺身の内側には頭部に枕を彫りだし、一面に朱を塗るといった念の入れよう。各所に残る加工痕は工人達の苦労をしのばせます。

■鏡
鏡・剣・勾玉が三種の神器であり、
これらは高い地位の人物の副葬品である。
特に鏡は祭祀の中心だったと思われます。

▲内行花文鏡(森園箱式石棺墓 径10.2cm)

▲内行花文鏡(林崎古墳 径17.3cm)

▲半肉彫獣帯鏡(前原市泊一区 径17.7cm)

■主な収蔵品(2)

■玉杖(ぎょくじょう)
長さ9.6センチの巨大な管状の玉です。通常糸を通して
連ねてネックレスのように使用する管玉の三倍以上の
大きさです。重さも136グラム。これは復元図にある
ように心棒を通して杖として祭祀で使う古墳時代のものです。

▲玉杖 (志摩町師吉 長さ9.6cm)
■石枕(いしまくら)
遺体を埋葬するときに頭を
安置させるための枕です。石枕としては小形で、
子ども用と考えられています。

▲石枕 (篠原箱式石棺 長さ17.6cm)
■車輪石(しゃりんせき)
石で作られた腕輪です。権力者が腕にはめた他、祭祀にも使用されています。
  
▲車輪石(福岡市西区飯氏 復元径9.9cm)

■主な収蔵品(3)

■埴輪(はにわ)
古墳の墳丘上に並べられた素焼きの土器です。円筒形の円筒埴輪と人物や動物、家や武器などをかたどった形象埴輪があります。曾根原のものは円筒埴輪の下部です。出土地不明のものは形象埴輪らしいのですが、類例がなく、正体不明で多くの人を悩ませています。

▲釜塚

▲赤坂

▲埴輪(曽根原 高さ17.8cm)

▲丸隈山古墳

▲出土地不明
■土製人形
当館のアイドルをご紹介します。5世紀ごろのものといわれる土製の人形です。リーダーもちゃんといます。大人気ゆえ、他の博物館に出張することもあります。
■太刀
まだ金メッキがキラキラ輝く古墳時代の小太刀とその復元図です。随所に金メッキの施された、いわゆる「黄金づくりの太刀」だったのでしょう。出土地は志摩町久米。久米の豪族の持ち物でしょうか。

■主な収蔵品(4)

■装身具
昔の人のアクセサリーとその出土状況です。材質は様々で、丸隈山はガラス、笹山は水晶と金メッキ、神在は銀です。おしゃれのためというより、むしろ権力者が力を誇示したり、シャーマン、御巫のような特殊な人が身につけたもののようです。

砂魚塚1号墳の装身具出土状況

 ■主な収蔵品(5)


▲前原市坂の下5号墳土器出土状況
■土器
郷土博物館には古墳時代の須恵器が多数収蔵されています。須恵器とはロクロを使い、弥生式土器よりも高温で焼きしめた黒っぽい土器です。

それらに混じって出土する陶質土器は朝鮮半島から持ち込まれたと思われる百済・新羅系のもので、この糸島が朝鮮半島との交流に大きくかかわっていた証です。

▲陶質土器
(出土地不明 高さ26.0cm)

▲百済系陶質土器
(出土地不明 高さ12.1cm)

▲(出土地不明 高さ16.9cm)

▲統一新羅系陶質土器
(出土地不明 高さ6.6cm)

▲百済系陶質土器
(前原市加布里城山 高さ8.6cm)

▲皮袋形土器
(福岡市西区小田 高さ11.9cm)

▲統一新羅系陶質土器(出土地不明 蓋/高さ5.7cm、高杯/高さ6.4cm)

■主な収蔵品(6)

■顔を描いた壷

こちらは当館の「顔」です。7世紀のこの壷のモデルは誰でしょうか。仕事仲間、それとも上役?ひょっとしてやわらかい輪郭線から、恋人の女性だったかも知れません。古代への夢を誘ってくれる人気者です。
■経塚(きょうづか)

経塚とはお経を容器に入れて地中に埋めたものです。供養や祈願のために埋められたようです。でも出土品では紙は炭のように固まってしまっています。
■怡土(いと)城の瓦

奈良時代、各地に造られた城の一つで高祖山にありました。大野城・水城などと同時期の造営です。
■瓦経(がきょう)

飯盛山頂より出土した12世紀の瓦経です。これも県指定文化財です。

(左側が表面、右側が裏面 大きさ左右8.9cm?7.3cm)