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■魯迅と鎌田誠一

■魯迅日記 鎌田寿、鎌田誠一との交流

▼魯迅と鎌田誠一の交流は
1.ラモスアパートへの引越の手伝い (1930年5月)
2.版画展覧会の準備 (1930年10月)
3.上海事変後の避難生活 (1932年1月)
4.重要書物書庫の表札 (1933年3月)

▼魯迅の中で鎌田誠一が独特な位置を占めるのは
1.魯迅が外国人としては唯一墓碑を書いたこと
2.租界亭雑文第二集に「鎌田誠一墓碑」を組み入れたこと
3.租界亭雑文第二集の後記に鎌田誠一について補足したこと

YEAR ■魯迅日記文 ■備考
1930 5月10日◆午後、本を新居に移す。
5月12日◆昼過ぎ、家財道具を運ぶ。夜、広平とともに海嬰をともない北四川路のアパートに転居す。
10月4日◆今日と明日の二日間、内山君とともに購買組合第一店の二階で、版画展覧会を開く。
10月28日◆午前、広平、商務印書館にドイツより美術書七種十二冊を受け取りに行く。計百八十八元を支払う。午後、重複する"Mein Stundenbuch"1冊を鎌田誠一君に贈る。
鎌田誠一は1930年3月に上海に到着。兄寿が勤める内山書店で働くことになった。結核で帰国するまでほとんど毎日会った。
鎌田誠一と魯迅との最初の交流は引越の手伝いである。北四川路のラモス・アパートA三階四号
1933年4月11日に大陸新村に引越するまで、このアパートに住む。
租界亭雑文第二集の後記によれば、3回の版画展は全て誠一が準備している。絵を描くのが好きだった鎌田誠一が魯迅に親しくなっていく時間だったと思われる。
1931 5月16日◆昼過ぎ、増田、鎌田両君とともに第四回申羊会洋画展覧会を見に行く。  
1932 1月28日◆午後、付近きわめて騒然とす。
1月30日◆午後、一家全員で内山書店に避難す。衣服数着を携帯するのみ。
2月6日◆午後、全員イギリス租界の内山書店支店に移る。十人で一部屋。床に寝る。
3月11日◆昼過ぎ、誠一君来る。海苔一箱を贈られる。
3月19日◆海嬰のはしか全快。そこで午前、一同自宅に戻る。昼過ぎ、鎌田君兄弟を訪ね、牛肉二缶、ウイスキー一本を贈る。夜、一月三十日より今日までの日記を補写する。
5月7日◆午後、重複するVogelerの絵「新ロシア紀行」一冊を誠一君に贈る。
7月3日◆晩、知味観に宴席を設け、客を招く。出席者、山本初枝夫人、坪井芳治、清水登之、栗原猷彦、鎌田寿及び誠一、内山完造夫妻、そして広平、計10人。
9月13日◆鎌田誠一君、福岡より上海に戻る。博多人形を贈られる。
上海事変後、内山完造も兄の鎌田寿も日本に帰国した時に、誠一は一人で魯迅の世話をしている。

ラモス・アパートから内山書店二階へ避難。誠一が死亡した時の日記にある「一昨年の友誼」とは、上海事変での交流を指している

四川路福州路付近の内山書店中央書店の三階へ避難している。

9月 この時の博多人形「藤」は遺作となった「菊の花」と一緒に、大陸新村1階の応接室に現在も飾られている。
1933 3月21日◆大陸新村に居を決め、家賃銀45両、ガス保証金二十元、水道保証金四十元を支払う。
3月27日◆午後、書籍をディスクウエルに運ぶ。
4月11日◆本日、大陸新村の新居に転居す。
4月23日◆晩、知味観に席を設け、客を夕食に招く。秋田、須藤、浜之上、管、坪井学士およびその夫人と子供二人、伊藤、小島、鎌田および夫人と子供二人および誠一、内山および夫人、広平および海嬰、計20人。
7月13日◆鎌田誠一君、明日、帰国のため、午後、別れの挨拶に来る。
蒋介石国民党から押収されそうな大切な書物を保管していた。1359号、表札は鎌田誠一
1934 5月17日◆昼過ぎ、鎌田誠一君、昨日病死すと聞く。一昨年の助け合いし友誼を思い暗然とす。  
1935 4月11日◆昼過ぎ、鎌田寿君来る。誠一のために墓石を書くように頼まれる。
4月22日◆昼過ぎ、鎌田誠一君のために墓碑を書し、また碑陰記も書す。
5月17日◆午後、鎌田寿君来る。油絵の静物一枚を贈られる。誠一の遺作なり。また海嬰にレコード二枚をくれる。
5月の油絵「菊の花」は1932年9月に贈った博多人形とともに、大陸新村の応接室に飾られている。
1936 3月18日◆日本の福岡糸島中学より「伊都」9号一冊を受け取る。 糸島中学第一回卒業生である鎌田誠一を思い、同窓生が誠一の特集記事をまとめたのが、伊都第9号である。

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