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糸島高等学校郷土博物館のあらまし


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中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国の地に位置する糸島高校には、旧制中学時代から多くの遺物が採取され、

昭和6年、大島元太郎校長はそれらの考古資料の保管のため、一教室を開放し、郷土室としました。
同年10月には中学創立10周年記念祝賀の一環として、展覧会が開催されました。

戦後にはいると、郷土室創設時から深く関わっていた原田大六氏による献身的、精力的、精力的な遺物整理が進められ、

また歴史部員各位の活発な活動にも支えられて資料、館内解説も充実していきました。

当時は「アメリカのカレッジ以上の考古館」、「郷土室にいると、いながらにして古代の糸島郡下の生活のさまが浮かんでくるようだ」、

「全校一致の長い努力の結晶が全国一といわれるこの郷土室を生み出した」と絶賛されたものです。

昭和31年5月には体育館兼講堂の落成に伴い旧制中学校時代の講堂が図書館に転用され、その一部、中二階に郷土博物館が誕生し、

同年10月には文部大臣指定の博物館相当施設となりました。わが国唯一の文部省指定高校附属博物館の誕生です。

昭和63年には視聴覚棟3階に増築された合同教室に移設され、現在にいたります。


<概要>-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------

古墳時代。弥生時代をわが国の生活文化の大変革期ととらえるならば、この時代はさしずめ社会体制の大変革期。

古代国家形成にむけて人々の動きがより一層、活発・広域化する時代です。

この古墳時代を象徴するものといえば前方後円墳。糸島では現在までに50基ほどの前方後円墳が発見されています。

福岡県内で総数200基ほどといわれていますから、県内の前方後円墳の約1/4を糸島が占めているということです。

前方後円墳は単に王の墓というだけでなく、地方においては初期大和政権と各地の首長が盟約関係を結んだことを示す

シンボルとしての役割も持っていました。糸島の前方後円墳は古墳時代の前半期のものが多く、しかも大型です。

このことは伊都国と初期の大和政権との弥生時代に続く密接な親交関係と、伊都国が北部九州地域における明主的な地位を約束されたことを

意味しています。博物館には当時の繁栄ぶりを示す銅鏡、石製宝器類、埴輪などが収められています。

古墳時代の後半期には糸島地方だけでも総数500とも千ともいわれる多くの横穴式石室の古墳が造られました。

この爆発的増加は古墳をとりまく社会情勢が変化し、その役割も変わっていったことをうかがわせます。

多くは墳丘の規模も小さく、既に入口が開けられ、石室内から様々な遺物が持ち出されています。

博物館の初蔵品の中でも量の多い資料の一つである須恵器もおそらくこれら古墳の石室内から発見されたものでしょう。

なかには朝鮮半島からの輸入品ではないかとみられる資料もあります。 この他、長野の古墳から出土した人物を描いた壷、

御床松原遺跡から出土した土製人形など当時の人々の表情、しぐさまでが思い起こされるユニ−クな資料にも興味をひかれます。